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 研修センターレポート
 

第4回
「自己研修」という教師育成のあり方が問われている

 

  人材開発研修センター 所長 上田定
   
 

■ 学校教育の現実的な課題を映す言葉

今、教師の力量を意味する「教師力」という言葉が注目を集めています。大新聞が特別取材班を編成して「教師力」を特集したり、書店に並ぶ雑誌や書籍にも、「教師力」をとりあげたものが目についたりするようになりました。 この言葉は、まさにこれからの学校教育を考える上でのキーワードのひとつです。

この言葉が重要なニュアンスをもって使われたのは、2006年10月に発表された「中教審答申」です。答申では、「新しい義務教育の姿」として、「学校の教育力、すなわち『学校力』を強化し、『教師力』を強化し、それを通じて、子どもたちの『人間力』を豊かに育てることが改革の目標である」とし、「学校力」強化とともに、「教師力」強化を改革実現のための要とみなしています。
「学校力」に比べて、「教師力」という言葉は、学校における現実の教師の姿と重なり、現在の学校教育が直面している課題をリアルに映し出す力を持っているように思えます。

■ 教師の力量に対する不安や懸念の裏返し

では、教師力という言葉が映し出している学校教育の課題とは何でしょうか。
教師力という言葉が人を引きつけるのは、現実の学校教育を担い、地道に日々の教育活動を遂行している教師に対する大いなる期待感が表明されているからです。学校教育を通じて、子供たちが新しい知識を身につけ、身体的、精神的な成長が育まれていくという事実は、この何十年もの間、基本的に変わりません。その学校教育を現実的に遂行している教師が子供たちの人生に影響を及ぼすからこそ、教師は人間的にも資質的にも優れた人間であってほしいという思いも、その言葉には込められているように思います。

ただ、こうした教師への期待感は今に始まったことではなく、いつの時代にも教育者としての教師に求められたことでした。とするなら、今何故、教師力が注目され、その強化が求められているのでしょうか。

その背景にはいくつかの要因が考えられます。一つは「団塊世代」の大量退職に伴う、授業技術伝承の危機感です。教育現場で培われてきた良質な授業技術やノウハウが教師の退職とともに失われることで、学校の教育力の低下が危惧されています。
また、これから大量に採用される教師の質に対する懸念も聞かれます。基準を下げて採用されるということに加えて、十数年にわたって展開されてきた「ゆとり教育」育ちの若者が、今度は教師として学校現場に入ってくることになるからです。
こうした状況をみると、教師力への関心の高まりは、その背後にある教師の力量に対する不安や懸念の裏返しであるともいえます。初任者研修の充実が図られる背景には、新人教師の力量に対する信頼感が以前よりも低まっている現実があるからでしょう。

■ いかにして教師のやる気、やりがいを引き出すか

教師力への関心の高まりには、もう一つ見逃せない側面があります。
今ではすっかり過去の話になった感がありますが、2002年に施行された新学習指導要領を巡って、激しい論争が繰り広げられたのを覚えておられるでしょうか。中でも、その後の学校教育に大きな影響を与えたのは、一九九九年に沸き起こった「学力低下」論争です。この論争はマスコミと様々な分野の論者を巻き込み、「ゆとり教育派」対「学力低下論派」の論争として展開、2001年文部省が「ゆとり教育」を抜本的に見直す形で決着しました。そして新学習指導要領が実施される直前に、「確かな学力」「学力向上」が文部大臣名でアピールされるに至ったのです。

この論争を通じて多くの論者が登場し、その議論は大々的に喧伝されました。しかし、論者のほとんどが大学教授、評論家、官僚、新聞テレビなどのマスコミ関係者で、そこには現場の教師はほとんど登場しませんでした。つまり、日本の教育の根幹を巡る論争は、現場の教師の頭上を飛び交っていたのです。

こうした事態は深刻な問題をはらんでいます。いくら有益な論争であったとしても、現場で日夜奮闘する教師にとって「他人事」である限り、その議論は現実的な取り組みに結びつかない、ということです。もちろん、議論と現場での実践との間には相当の時間差があることは理解できます。しかし、たとえ現場に届いたとしても、その議論が求める方向に動くという保証はどこにもありません。

改めて言うまでもありませんが、教育の現場は、教師と子供たちとの日々の直接的な関係によって成立っているのです。その教師がやる気にならなければ、何事も始まりません。学校教育は、どんなに識者によって議論が尽くされようと、どんなに教育制度を変更しようと、最終的には一人ひとりの教師によって現実化されない限り、それらの論議や施策は絵に描いた餅に過ぎません。改革が成功するか否かは、それらの論議や施策を受けて、現場の教師がどれぐらいやる気になっているか、どれぐらい教師としてのやりがいを感じているか、ということにかかっているのです。

学校教育を巡る改革論議は、制度改革や法改正、カリキュラムに関わる議論のプロセスを終わり、今や現場の教師のやる気、やりがいをいかにして引き出すかという議論に移っています。中教審をはじめ、マスコミで大々的に教師力が取り上げられているのは、学校教育の改革論議が新たな局面を迎えていることの表れです。

■ 「一国一城の主」の終焉と新たな協働関係の構築

この事態は、「教師育成」が学校経営の最優先課題になったことを意味します。十年後の学校経営は、教師育成に成功するかどうかにかかっています。確かに、現状でも、教師は、授業のために、また自己啓発のために勉学に励んでいます。学校側も教師としての仕事に資する様々な研修機会を用意しています。その事実や重要性を否定するつもりはありません。しかし、検討すべきは、「研修」という名のもとに行われている現状の教師育成は、学校の教育力向上に有機的に位置づけられているのかどうかという点です。

従来の研修は、基本的に個人の力量を伸ばすことが主眼であり、自己研修が主体となっています。教師が自分の専門教科や教育実践に必要な知識や技能を自らの努力で身につけるのです。その手段として、自分の目的に適った勉学の場を探し、「研修」として自らの判断で参加するというのが一般的な形です。この考え方には、「一国一城の主」という言葉に象徴されるように、学校教育は個人的な力量で営まれているので、教師個々人の力量を向上させれば、学校全体の教育力が向上するという前提があります。

しかし、この前提が重大な問題点をはらんでいるのです。ひとつは研修が教師の自発性に任されているため、教師による力量の不均衡が生まれやすいということです。もうひとつは、そうした教師の自己研修自体が、必ずしも学校全体の教育力に結びつかないまま、個々ばらばらに行われがちであるということです。
今「教師力」が問われているのは、教師個々人の教育活動の質というより、それが他の教師と有機的に連動し、連携し、教師集団の一体的な教育活動として機能しているかどうかです。つまり、教師の協働によって、学校全体の教育力をいかに向上させるかが問われているのです。

このことは教師の自己研修を否定するのではなく、むしろ主体的な学びを今以上に求めることになるはずです。なぜなら、学校の教育力の向上は、一人ひとりの教師が住み慣れた自分の国、自分の城から一歩踏み出し、新たなことに挑戦することによって可能になるからです。

 
  第1回 「教師に求められる新たなコミュニケーションのあり方」
第2回 「コーチングで変わる教師と生徒の関係(上)」
第3回 「コーチングで変わる教師と生徒の関係(下)」
 
 
 
 
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