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私学における「学校文化」とは |
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一橋大学大学院社会学研究科教授 久冨 善之氏 |
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久冨 善之(くどみ よしゆき) |
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一橋大学大学院社会学研究科教授
一九四六年生まれ。専門は教育社会学・教育調査。研究領域は、主に競争論、教員文化など。
著書は『競争の教育』(労働旬報社)、『日本の教員文化』(多賀出版)、『現在の子どもがわかる本』(学事出版)など多数。 |
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「学校」は、短い人でも九年、長い人は十六年以上もの期間通っている、誰にとってもなじみの深い存在です。しかし、どこか外界と隔離されたところにあり、一種独特の雰囲気を持っている「正体不明な存在」という印象もあります。
学校は、生徒と教職員が毎日生活する社会を形成しています。そして、人間集団が生活しているということは、そこに一種の文化が存在するということです。その文化がそこにいる生徒や教職員の行動に影響し、独特の文化が存在することによって独特の雰囲気を醸し出していると言えるでしょう。
今回は、この「学校文化」を教育社会学の見地から長年研究し、さまざまな教育問題に提言を与えていらっしゃる一橋大学の久冨教授にお話を聞きました。 |
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まず「学校文化とは何か」というところからお話をお聞かせ願えますか? |
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今の人間(ホモサピエンス=新人類)が地球上に登場したのは一五万年から三○万年ぐらい前と言われています。それまでには進化を遂げてきているんですが、それ以後は、DNAの構造としては進化をしていないと言われています。しかし、人間の生活の仕方は変わっていますよね。つまり、遺伝の形質は変えないまま、身体の外側に「文化」をつくっていったんですね。生活の仕方を進化させることによって人間の歴史を発展させてきたわけです。
文化というものは、その中に生きていると、その文化を内面化してその文化の中で生きる一人前の人間になる力をつけていく。そういう人間に対する形成力があるんですね。文化は、次の世代に伝えないといけないという課題があるわけですけれども、生まれたばかりの子どもはホモサピエンスのままですから、文化が大きくなればなるほど、世代間の距離が大きくなってしまうんですね。そこで、系統的に訓練しないと伝わらないということになってきたわけです。
文化の中で生きることで自然に暗黙に身につくことも重要なものとしてあるわけですけれども、読み書きや数量の計算能力はただ生活しているだけでは身につきません。特別に訓練しない限り身につかないのです。それで一九世紀から、みんなが行くような「近代学校」というものがつくられたんです。
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なるほど、学校は文化の伝承ということで登場してきたわけですね。 |
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そうですね。そして、つくられた学校という集団の中に、また文化が出来ていくわけです。近代学校は、子供たちに「これだけの教科・カリキュラムは学んでほしい」ということで制度としてつくられたわけです。それを学校の「制度文化の顕在的な側面」と呼んでいます。
一方で、学校の制度文化というものの中には、学校という特別な制度の中に暮らすうちに、学校制度に自分の心や体を合わせ、自然に身につくというものもあります。それが「潜在的」と呼ばれる部分です。例えば、同じ年齢の子供ばかりという状況に慣れてしまうとか、毎日学校に行くのが当たり前と思ってしまうとか、大人の言うことは聞かなければいけないとか、物事というのは学年によって違いがあるんだとか、制度の枠組みが子供たちに求める行動に毎日毎日慣らされているうちに身につくという側面があるんですね。
つまり、学校が文化的な存在だというときは、まず第一の中心は「学校の制度文化の顕在的なもの」で、それは人類の発展のある時期に巨大な文化の距離を埋めるために登場したということです。ところが学校という制度を組織したので、制度に子供たちが組み込まれることによって、制度の持っている枠組みが生徒たちの心と体に影響力を与えるわけですね。それが、第二の「潜在的な側面」というわけです。
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学校制度の顕在的な部分と潜在的な部分が学校文化を形成しているわけですね。 |
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そうですね。ただ、それだけで学校が成り立っているわけではなく、学校の制度を子供たちに伝え、動かしていく決定的な役割を果たしている教師という存在がいるわけです。教師は制度文化を担って子供たちの前に出てきているので、あまり教師たち自身がどういう文化を持っているかということは子供たちには分かりませんが、実際には教師は独特な生活様式を持っていて、文化を形成しているんですね。
子どもたちに教科・カリキュラムの伝達をしてそれを獲得させるというのが教師の仕事なんですが、前の世代がつくりあげた文化が巨大なのでどうしてもある部分を選択して伝達しなければならないわけです。そして、伝達は子供たちが獲得しない限り伝達できないので、いわばパラドックスを背負った伝達にならざるを得ないんですね。
そういう難しい行為を毎日やっている教師たちに、ある独特の生活様式が生まれるわけです。例えば、子供たちを授業に集中させなければいけないので、そういうことに異常に神経質になってしまうということがあります。少し子供たちが騒いだりすると過敏に反応してしまうというようなことですね。また、時間を守るということにも神経質になってしまいますね。それから、ある程度教師の権威がないといけないので、先生同士で新米であろうとお互いに「先生」と呼んだりしているわけです。こういったような教員文化があるわけですね。
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学校文化の中に「教員文化」というものも含まれるということですね。では、生徒の方はどうなんですか? |
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生徒は生徒で、「生徒文化」というものをつくっているんです。
学校の歴史のある時期以降、日本でいえば明治の終わりから大正にかけてですが、生徒が内部でつくっている生徒たちだけの雰囲気とか、そこでの活動といったものが教育的に意味があると着目されるようになったんですね。それによって教科外活動がカリキュラムの中に組み入れられるようになったんです。それ以降、生徒の自主的な活動とか、学校行事といったものが形づくられてきたわけです。
学校が意識してやっているものは生徒文化の中でも学校に見えている部分だと思いますが、最近のいじめ・いじめられ問題などはなかなか教師に見えにくいもので、「学校の地下組織」などと言われている部分で起こっているわけです。
例えば、生徒たちの内部の人間関係の中でどういうものが価値になり、どういうことで子どもたちが対立しあったり共同しあったりしているかといったことですね。また、学校とは関係なく、どういう持ち物や音楽が流行ったり、どういう行動の仕方が流行ったりというような現代の消費文化とかマスコミ文化、青年文化といったものが生徒文化の中に浸透している場合が多いんです。
生徒の実際の雰囲気というものは学校に従順というわけではないので、学校制度文化との間で距離があるのではないかと思います。それをつなごうとして、学校行事のようなものがあるわけです。それを、私は「校風文化」と呼んでいるんです。
例えば、制服や校章、校歌、学校の歴史、行事、独特な行動の仕方、学校の雰囲気といった他の学校とは違うものがそれに当てはまるわけですね。そして、それは先輩がいて後輩に続いていくというような一体性と連続性を象徴するようなものなんですね。
行事などで組織された生徒活動が生徒文化と校風文化の両方にまたがっている、というような構造になっているのではないかと考えています。
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なるほど、学校文化は、顕在的・潜在的な制度文化と教員文化、生徒文化、そしてそれらをつなぐ校風文化という形で構成されているわけですね。 |
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そうですね。そして、さらに言えば、学校文化は学校の外との関係があって、学校の制度文化は官僚機構からの統制があったり、教師や生徒は、家族や地域、民族などの様々な外部からの影響を受けているわけですね。
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学校文化とは何か、ということはだいぶ分かりました。では、この学校文化という視点から、現在の様々な学校をめぐる問題をどう見ればいいんでしょうか。 |
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四つの文化が全体として働きながら、中心的な働きである顕在的な制度文化、つまり教科・カリキュラムの伝達・獲得というものがきちんとなされているというのが学校の本来の姿だったわけですが、いろいろなところにその働きがうまくいっていないんじゃないかと思われることが見らます。
学校の地下組織の質の悪化と言いますか、学校文化の潜在的な部分がおかしくなっているというのがその要因だと考えられます。
学校文化の大きな働きでもありま すが、子供たちの中で自然に文化がつくられて、上の世代から下の世代へと受け継がれていき、子供たちを育てる力になるという本来の働きが弱くなってきているんじゃないかという気がします。現代では当たり前だという人もいるかもしれませんが、「いじめ・いじめられ」を小さい時から意識しているような構造が内部にあって、それを乗り切っていくだけで疲れるというふうになっているのは問題です。
また、消費文化の中で生産されて、雑誌などで送り込まれてくる文化と、学校でつくっていきたい文化との距離が離れてきて、子供たちに行事などに参加して自主的にやってもらおうと思っても、子どもたちが乗ってこないという現象が起きています。つまり、教科外活動の形骸化ですね。教師に推奨された生徒自治集団活動が子供たちを組織して、いきいきとそれに参加させるということが難しくなっている学校が多いと言われています。逆に言えば、学校が「ちょっとは乗ってみようか」という感じを抱かせるような内容の魅力を失っているというふうにも言えるのかもしれません。
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学校で教えようとしていることに魅力がないということですか? |
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学校が伝達・獲得を目指している内容の魅力がなくなっているということは言えるのではないでしょうか。
「これを獲得したら何かいいことがあった」とか、彼らの年代の感性からみても「とても面白いことがあった」とか「ものが見えてきた」とか「世界が広がった」とか、そういう世界の広がりが子供たちの間で「共有できた」とか。そういうものがあって初めて生徒と学校との対話が成立するのではないかと思います。
日本の教科・カリキュラム全体が子供たちの興味や関心をひきつける魅力を失ってきているとも言えます。失ってきているのに、長い間「競争の教育」に傾倒してきました。「面白いことはないが、試験でいい点がとれる」「入試などでより有利になる」といったような競争の文脈によって、長い間子供たちを学びに組織させてきました。このことが長く続いてきたので、だんだん生徒と学校との距離も離れてしまったんでしょう。
もっと面白い、興味の持てる内容にしなければならなかった。勉強好きの子供だけでなく、みんなに「やってみて面白かった」と思わせるような教育内容に転換をしていかなければならなかったんです。
学校制度文化と生徒文化との乖離が大きくなって、生徒の中の見えない部分と学校との亀裂が大きくなっていったわけです。片方で面白くないけれど競争のためにやらなければならばい「苦役」に従事している。だから片方で自分たちだけでつくれる世界では「快楽」を追求する、というように質が変化してきたのです。
文化というのはそれを獲得する人たちの努力もあり喜びもあるというものだと思います。そういう質の良さがなくて、快楽追求で競っているというのは、どうみても文化の質としてはおかしいと思います。
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子供たちの中で「学ぶ」ということが単なる「苦役」になってしまったことが、生徒文化の乱れにもつながっているということですか? |
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消費文化とか商業的なものは快楽追求でもいいわけですけれども、子供たちはそういうものだけに取り囲まれているというわけではないですよね。本来学ぶ場である学校の中にも、そういう文化が入り込んで、学ぶ喜びのようなものは少なくなってしまっているんですね。
そういう状態になって、子供たちが学校の制度から離脱しようとするのをきちっとさせるために、一部の学校では管理主義(規則と点検)で抑えようとしたわけです。
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やはり、学ぶことの喜び、楽しさのようなものを復活させないといけないということですか? |
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日本の教科・カリキュラムが教科書を含めてあまり面白くないんですね。外国の教科書は厚くて面白いものが多いんですよ。先日、イギリスのナショナル・カリキュラムを読んでみたんですが、興味深くて面白いんですね。カリキュラム自身が面白いのもありますし、テキストも面白いんですよ。子供たちに考えさせるように、少しでも興味を持たせるように、という工夫がされていますね。それを見た時、日本は相当遅れてしまったな、という印象をもちました。
「競争でやっているから大丈夫」「学力は世界各国の中でも高い」ということを言っている一方で、子供たちには苦役に従事させ、人間の弱い部分に訴えかけてくる快楽の文化に溺れさせてしまうということになっていたわけですね。 |
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学ぶ内容の問題ですか?それとも学ばせ方の問題ですか? |
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まず、学習指導要領はつまらないですね。日本の場合は知識羅列型になっているんです。その教科で子供たちの学びを通じて本当につける力は何なのかという考察が弱いんです。中内敏夫(中京大学社会学部教授)によれば、日本は「要素的知識観」が強かったんですね。知識というのは要素を覚えればいいんだという見方です。一方で、知識はつながりがあって体系的で、人間が創造的につくりだして活用されていくものだという「生きた知識」という見方があります。日本では、覚えておけば必要な時にパっと出せるというような知識観があり、それをテストで測るという教育がかなり長く支配していたわけです。これは、先ほども話に出た「競争の教育」ともピッタリきていたわけですね。
文部科学省も「新学力観」と言って、これを変えようとしていますが、どうやったら本物の学力がつくようになるのかというところを見つけ出せていないのが現状ではないでしょうか。
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「学校はつまらないところ」ということになってしまってはだめだと思います。学校文化という観点から打開策はあるのでしょうか? |
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やはり、学校文化がうまくつながり合わなくなってから、学校をめぐる問題が起こるようになってきたような気がします。ここを立て直すことがとても重要な課題じゃないかと思いますね。
「高校教育のアイデンティティ」(国土社)という本にも書いたんですが、必ずしも学力レベルが高い学校にいる生徒の満足度が一様に高いわけではないんですね。これは、首都圏の私立・公立高校の学力上位クラス、中位クラス、下位クラスの学校を対象にした調査の結果なんですが、学校個々による差の方がランクによる差よりも大きいんですね。
「行事の○○高校」と言われる学校がありまして、そこは必ずしも学力レベルが高いわけではないんですけれども、新入生が入ってすぐに運動会で上級生と一緒になって一所懸命やることで、「この学校は自分の学校だ」と思えるように、うまくやっているんですね。生徒たちが学校活動にとても積極的で、満足度が高いんですよ。
学力上位クラスの学校の方が平均的には学校生活の満足度は高いんですが、下位クラスの学校でも生徒活動が活発なことで満足度の高い学校もあるということですね。
学校なりの個性や歴史を生かせばいろいろな道があると思うんです。やり方次第なんですよ。でも、個人的には、一番重要なのは、授業を子供たちにわかるように、そして興味の持てるものにすることだと思います。「やってよかったな」と思えるものにしていくことが重要だと思いますね。
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「教員文化」という観点からはいかがでしょうか? |
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教師たちの判断基準は内向きなんですね。どういうことかと言いますと、「教師のことは教師にしかわからない」という考え方が強くて、教師仲間で考えて、判断して、評価したり・しなかったりするわけです。
学校と教師に対する信頼が高い時代には、内向きでも結構やれたんですね。しかし、今や学校や教師に対する信頼が低い時代になったんです。以前は、「教師だったら子供たちのために頑張ってくれているんだ」と思われていましたが、最近は、「案外自分たちの利害を守るためにやっているんだ、子供たちはそっちのけなんだ」というような教師に対する見方がだんだん強まってきました。教師にとっては、低い信頼のもとで仕事をしなければならない難しい時代になったわけです。ですから、内向きにばかりやっていられないんですね。学校の情報公開や教師に対する評価の本格化などもそれに拍車をかけていますね。
私学はある意味、もとから外部の評価を受けていますので、問題は小さいのかもしれませんが、全体としては学校と教師に対する信頼の程度は低まっていますから、どうやって信頼を得るかが難しく、かつ重要な課題になっています。
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学校や教師に対する信頼の低下はどうして起こったのですか?情報化時代になって学校で教える知識の価値が変わったのでしょうか? |
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学校が知識を伝達・獲得する独占機関ではなくなったことは確かです。大学が知識を創造し発信する独占的な機関で、それをバックに小中高の学校知識も成り立っている、という構造は崩れてきています。知識の伝達・獲得というのは、水が上から下に流れるように、ただ伝達すれば獲得できるわけではないので、パーソナルな要因が重要です。知識を現に活用したり探求したりしている人へのある種の信頼と、自分もその一環に参加するということを通じて、その知識を本当に自分のものとして身につけることができるというものだと思います。ですから、教師に対する信頼は絶対に大切ですね。本やビデオなどでも同じような信頼を感じさせることは理論的にはあり得ますが、教師がこれだけ世界中にたくさんいるということから考えても、やはり人間的な存在を媒介にして伝達・獲得されるということは変わらないと思いますね。むしろ、伝達しようとしている中身が落ちてきていることの方が問題なんだと思います。
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信頼低下は、学校で様々な問題が起こっていることも理由なのでしょうか? |
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七○年代後半以降、教育荒廃といわれるようなことが起こり始めてから、「必ずしも学校や教師が子供たちのために頑張っているわけではない」ということが広く言われ始めました。これは制度主義ということが絡んでいるのですが、制度主義というのは、「ある制度を構成している人たちは制度が目的としたことを必ずしも使命として全力でやっているのではなく、制度が一旦確立するとその制度の利益、現在構成している人たちの利益の方を大事にして、制度が本来果たさなければならない任務が二の次になる」というようなことです。
ある時期から、特に公的な組織について、制度主義がはびこることに対する批判が強くなりました。もちろん、学校に対してもその批判が出始めたわけです。
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こうなってくると、教師もかなり難しい状況の中で仕事をしなければならなくなりますね。 |
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教師が仕事上の過度のストレスなどで心身ともに消耗し仕事への熱意を失うことバーンアウト(燃え尽き)と言うんですが、そのバーンアウトの比率が八○年代半ばから九○年代半ばまでずっと上がっていたんです。ところが、九○年代末になると、バーンアウトの比率が下がっているんですね。五年前までは、学校がいろいろな問題を抱えることによってどんどん難しくなって、教師たちが頑張ってもうまくいかないというのが増えていたんですが、ここへ来て、「子供たちにちょっと問題があっても当たり前」という感じに変わってきたのではないかと考えています。
日本の教師は非常にまじめで「きまじめ文化」と言われていますが、それが「へっちゃら文化」と言ったらおかしいですが、何かあっても「直ちに何とかしなくては」ということではなく、もう少しおおらかに見守ろうという感じが出てきているんです。これは大きな変化ですね。
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教師たちの指導観が変わってきたということですね? |
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指導観の変化は別の側面でも出てきています。
九五年にIEA(国際教育到達度学会)の第三回国際数学・理科教育調査が行われました。これは、世界数十カ国の小学生、中学生が同一のテストを受けて到達度を測定する調査なんですが、同時に教師に対する質問もしています。
この調査では、日本の教師たちは、「公式や手順を覚えるのが大事」という回答者が多く、「理由を説明するということが大事」という回答者は少なかったんです。例えば、炭酸ガスのビンの中に火のついたろうそくを入れると消えるというのはなぜかというようなものですね。
ところが、九九年に、追跡調査(二段階目)をやっていまして、ここでは、「公式や手順を覚えるのが大事」という割合が減って、「理由を説明するのが大事」という回答者が増えているんです。これはちょっと希望のもてる変化だなと思ったんですね。
残念に思うのは、「学んでいることが現実の生活でどのように使われているのかがわかる」という項目が相変わらず低いことですね。
しかし、中学校教師の指導観の変化が確実に見られるんです。信頼が低くなっている状況の中で、教えている知識が子供たちに魅力がないという状況がかなり続いていたんですが、学校内部での競争が少し弱くなって、大学だったらどこでもよければ入れるようになっているし、教育の中で形成された序列がそのまま企業社会での生涯にわたって安定的な序列につながるという側面も弱くなっているので、競争を弱める側面が出てきています。競争が弱くなって、子どもたちが勉強をしなくなったと言われていますが、そういう中で教師たちの指導観とか学校の困難に対する捉え方とか、そういうものが時代に応じてある程度変化していって現代を反映して何とか乗り切っていこうと、何とかいいものをつくっていこうというふうになっているのかなと思って、私は希望を持っていますね。
九○年代末になって、やっと、長く続いた日本の伝統的な教員文化も変化しはじめた、といったところでしょうか。
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「私学」ということでお伺いしたいのですが、私学にとって学校文化という視点はどのように活かしていけるのでしょうか? |
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私学は学校ごとに様々な違いがあって個性が強いと思います。しかし、教師の世界はどこへ行っても、教師の仕事柄から、「きまじめ文化」が強いですね。裏の側面として、みんなが四六時中あらゆる側面で、きまじめにきっちりやっているわけではないので、いいかげんにやっているのも、お互いに見逃しあいながら生きていると言われています。
その中で、いま求められている開かれた学校経営を実践していかなければならいわけですが、学校でやっている内容が子供にも親にもわかるようにしていくためには、個々の教師だけの努力ではできませんよね。学年とか教科とか、みんなで相談してやっていくことが重要になると思います。
ただ、みんなで相談するといっても、単なる打ち合わせだけとか、ただの連絡だけとか、形式的なものだけにならないで、実質的なものにしていく必要があります。
とっかかりとしては、いいリーダーがいるというのは必要です。それも、どんどん引っ張っていくというだけではなく、時には、自分の失敗を話題にしてそれをきっかけにみんなで深く考えさせるというような、ざっくばらんな雰囲気をつくれるリーダーがいいですね。そもそも、教師たちは、きまじめですから、頑張ろうとするとますますガチガチになって、縛りになったり形式化したりするんです。それをざっくばらんにする工夫をいろんなところでやっていかなければならないわけです。
そして、教師内部のいきいきした雰囲気を出すためには、リーダーが失敗を出せるだけでなく、失敗した教師を「あいつはダメなやつだ」という目で見るのではなく、おおらかな目で見る雰囲気が必要だと思います。「いま子供たちが難しいのは当たり前だから、失敗は誰にだって起こるんだ」という、おおらかな見方をして、みんなで相談しながら進めていくことが大事ですね。
バーンアウトの研究でも、苦しい時に相談に乗ってくれるとか、フォローアップしてくれるという関係があるかどうかでかなり違うという調査結果も出ています。職場の雰囲気が重要なんですね。高バーンアウト学校と、低い学校との差はそいういうところだと考えています。
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やはり、教師の世界では自分の失敗を出したくないという雰囲気はあるようです。問題を担任が抱え込んで、抱えきれなくなって始めて表に出るというようなこともあるようです。 |
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教師は、「自分でなんとかしなくちゃ」という責任感が強いですね。これは決して悪いことではないんですが、そういうことがマイナスに働くこともありますよね。
学校という職場の雰囲気としても、「個人の責任だ」と見てしまう雰囲気はありますよね。そういうものを払拭して「みんなでやっていこう」という、いい教員仲間をつくれるかどうかということがかなり重要になってきますね。
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生徒文化については、私学という観点からは何かありますか? |
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生徒に関しては、私学は「建学の精神」のような「校風」を象徴するものがありますよね。しかし、それが、あるにはあって、意識もしているんだけれども、形式化してしまっている、というのをよく見かけますが、それは良くないですね。そういったものが、今の生徒たちと結び合って、いまの生徒たちの心の中や活動に生きて働くようになっていなければいけないと思います。
建学の精神がどこかに「鎮座ましまして」いるのではなくて、実際に生徒たちの中に生きていて、それが後輩にも伝わっていくというものでないといけないと思います。
例えば、「自主自立」が強い学校は、どうしてその学校に行くと生徒もそうなるのかというと、その学校にはそうさせる力があるんですね。どこにあるのかというと、生徒たちの雰囲気というか、物事に参加することを通じて形成されていくわけですね。ですから、生徒の中に生きているということが一番大事なことなんです。学校としては、生徒文化との対話とかつなぎが大切なんですね。
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そういう文化をどう築き、維持していくのでしょうか?先ほど出た運動会などの行事が大切なのでしょうか? |
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上級生から受け継ぐという意味では、行事や、もちろん部活動なんかも大事ですね。
しかし、学校ですから、やはり授業が大切ですよね。どれだけ、その学校独自の魅力ある授業をやるか、ということでしょうか。
中学生・高校生の学習離れはかなり進んでいると言われていますので、まずは、どれだけ魅力のある、わかる授業をやるかが大事なことです。
その背景として、行事や教科外活動などを通じて教師が生徒にとってどれだけ身近になるか、信頼できる対象になるか、ということが重要です。授業は生徒たちにとって、人間を通じて伝達されるわけですから、その点で教師が信頼されるということがとても大切です。現在は、生徒たちの大人世界への不信が大きいのです。学校が提示している制度の枠組みとしての顕在的な教科・カリキュラムは、無理やり押し付けられていると思われ、反発の対象となっています。従うとしたらやむを得なくやっているという状態です。
教師との交流を通じて、教師や学校は信頼できる存在で、この学校は自分たちの学校だと思えるということが伝達・獲得を支える暗黙な体系になっています。学校に「信頼の文化」をどうしても再建しなくてはならないと思っています。そのためにも、信頼できる大人を見せなければなりません。子供にとって信頼できる学校にならなければなりません。不正義はきちんと不正儀として扱い、困っている人はちゃんと助ける、そいういう信頼できる学校になり、そしてみんなで学校をつくっていくという感覚を持つことで、自分たちのいる場を少しでもみんなで努力して良くしていこうということになればいいなと思います。
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「学びたい」と思う独自文化をつくることが大切なんですね。ところで、「学びたい」という場合、「学ぶことが楽しい」という動機なのでしょうか?それとも、「学ぶことが将来役に立つ」ということなのでしょうか? |
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それは両方あると思います。と言いますか、学校知識に子供たちを惹きつける魅力は、五つあると私は考えています。ひとつは、「生活に現実に役立つ」ということ、二番目は「将来職業人になるときに役立つ」ということです。教科の内容は人間の作り出した文化の領域から抽出されてできているんですが、それを身につけることによってその領域に自分も入って新たなものを創造したりというような魅力もあります。これが三つ目ですね。入試や採用試験で評価を受けて、競争上のランクであるところにいけるという魅力も当然学校にはあったと思います。競争の文脈ですね。さらには、アカデミズムの神秘という魅力もあると思います。これで五つですが、どれか一つというのではなく、人によってどれに反応するかは違うんです。
本来、どれもあるわけだけれども、日本の場合は、かなり長い間、「テストで点を取れる」「それが職業社会でのランクにつながる」という競争の文脈で子供たちを勉強させるということが続き過ぎました。
「競争」があまりに多くの子供に対して力を果たしてしまったことが問題なんですが、それが弱まってきたらからといって、別の魅力が蘇っているかというとなかなか蘇らないんですね。ずっと長く子供たちは勉強の条件はそういうものだと思っていますので、なかなか別のところへは戻ってこないわけで、そう意味では授業の魅力を回復することが学校 にとっては一番大事なことだと思います。
もちろん、「学力」は大切です。しかし、ただ教え込めばいいというもではなくて、それが人間に対する信頼とか、他者とのコミュニケーションとか、自己表現能力といったようなものとつながっていなければダメだと思うんです。ただの覚え込みというのではない「学力」の姿をきちんと実現できればいいな、と思っています。
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私学は大学進学一本やりというように見られがちですが、ただ単に大学進学実績をあげればいいんだという学校は実際には少ないと思います。 |
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子供を私学に通わせている保護者の方はたいてい教育熱心ですよね。そういう方々のエネルギーをうまく組織できるといいですよね。学校への父母や生徒の参加はこれから求められる開かれた学校経営という点ではとても重要な視点です。すべて物事は学校側が決めてそれに従わなければばならないんだということではなくて、自分たちのことも聞いてくれるんだというふうになっていくということも、学校や大人社会に対する信頼を回復するために重要だと思います。
外国では生徒や保護者の学校参加は進んでいます。OECDで出した「学校参加」という報告を見ると日本は最低水準で、かなり遅れていると言えます。
世界的には、学校参加は七○年代から進んでいました。考えてみると日本で学園紛争をやっていた頃から世界の潮流が変わっていたのに、日本の学校はあまり変わらないでずっと来てしまったんですね。ちょうど日本の高度成長とも重なって、「変わらなくても大丈夫」ということだったわけです。
私学も学校によっては、教員にだって経営のことを話していないというところもありますから、学校を開くということは簡単ではないでしょうけれども、生徒が「この学校は自分たちの学校だ」という感じを持ってもらうことが大人社会に対する信頼につながるという意味では、学校参加を進めた方がいいと思います。
「つまらない学校ではなく、信頼で結ばれた学校でありたい」。私学を経営している方は、そういう浪漫を持っていると思いますね。
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私学は生徒が自ら望んで入っていますので、学校に対する信頼という意味では、公立とは違うと思いますが。 |
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子供たちが自分の学校やクラスにどういう時に誇りを持てるかというのが難しいところなんですね。生徒たちがこの学校に自分のエネルギーをかけたい、自分の母校だと思える、というところにどうやって持っていったらよいのか。快楽文化でなくて努力と達成と喜びのようなものがある学校にどうしたらなるのか。こういったことを考えていかなければならないんですね。苦役と快楽のセットというのはよくないですよ。ただ楽しければいいというのでは成長しないからまずいんですね。文化が我々に課している課題を乗り越えていくことで人間は成長するんですから。
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子供たちを勉強にかりたてる何かが足りないような気がします。 |
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学校で、「人間が生きるということはどういうことか」ということや「自分の将来を自分としてはどう考えていくのか」ということを、形式的ではなく、生きた姿で見せるのが大切です。私学は多くの卒業生や同窓会なんかがあるんですから、将来の姿を生きた形で見せることができますよね。まだまだ、やれることはたくさんありますよ。 |
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学校を「文化」という視点から考察し、「制度」「教員」「生徒」「校風」という四つの文化の構造として捉える久冨氏の研究は、秀逸で興味深いものでした。
中でも教員文化の考察について強い関心を持ちました。元来きまじめであるがために頑なになりがちな教員の雰囲気を、相談し合える、ざっくばらんな雰囲気に変えていこうという提言は、学校で起こる問題を解決していったり、改革を進めていくためのトリガーとなるのではないでしょうか。 |
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「私学マネージメントレビュー」第2号(2001年8月発行)より転載 |
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